日本では知られざる米国での失敗

90年代ゲーム機戦争での「セガの敗北」を物語る歴史的資料が公開

Image:Interneteable/Shutterstock.com

海外サイト「Sega Retro」は、セガに関するあらゆる情報の網羅をめざすプロジェクトだ。そのWikiに、ゲーム機戦争を繰り広げていた当時のセガ・オブ・アメリカ(SOA)での社内情報が詰まった272ページものPDFが公開されている。

このPDFは1990年代初頭に米国での任天堂の独占に近かった状況を打破した頃から、ドリームキャスト販売終了後に家庭用ゲーム機から撤退するまでの経緯を生々しく物語っている。その中には、1997年までに米国内で発売された全てのセガハードのコストやマージン、売上がまとめられたスプレッドシートまであるのだ。

ほか、明らかに社外秘のメールや文書も満載されている。1996年3月、当時のトム・カリンスキーCEOが述べたという、日本で「我々はソニーを追い詰めつつある(We are killing Sony)」との言葉は、セガのWikipediaページを書き換えるほどのインパクトがありそうだ。

カリンスキー氏は「社員、販売員、小売店、アナリスト、メディアなどに、日本で起きていることを見てもらい、理解してもらいたい。そうすれば、なぜ我々が最終的に米国で勝てるのかがわかるだろう」と語っていた。それは結局のところ実現せず、カリンスキー氏は辞表を提出することになった。


ほか、米国で展開された「Nothing Else Matters」キャンペーン広告の絵コンテもあり。カリンスキー氏がマーケティング責任者に宛てた「広告の50%をゲーム映像に」するよう求めるメモを読むこともでき、1997年には米音楽フェス「ロラパルーザ」がセガのマーケティングにおいて重要な位置を占めていたことも分かる。

セガサターンの躓きは日本よりも海外で売上不振を極めたことが原因とみられているだけに、その主な市場である米国での状況を知ることは、セガの歴史を語る上でも不可欠と言えるだろう。

さらに本文書からうかがえるのは、セガがソニーを徹底的に観察し、どうやればソニーの足場を固めさせないかに多くの時間を費やしていたことだ。

その中には「技術的に優れた次世代機としてサターンを位置づける」「サターン専用周辺機器を活用する」「スポーツのラインナップを強化し、シーズン開始と同時期に新作を発売する」などの戦略があった。

1995年秋、セガがマーケティング費用でソニーに何百万ドルも遅れを取っていたことを示すチャート

いま振り返れば、そのどれもが上手く行かなかった。そして資料では、セガのもう1つの主な戦略だった「価格競争と利幅を確保するため、ハードウェアのコストを下げること」も思い通りに行かなかったことが示唆されている。

それにサターン本体のみの小売マージン(小売店の利益)は6%だったのに対して、ソニーは本体10%、パックイン(ソフト同梱版)15%を提供していたと推定されている。小売店にとっても、セガサターンより初代PlayStationの方が魅力的な商品だったのだろう。

あるスライドでは「ソニーはどう(上手く)やったのか」と問いかけている。セガの答えは、ソニーの方が安いと認識されたこと、ソニーのソフトが「我々より良く見える」こと、セガが「スーパー32XとセガCD(日本のメガCD)に足を引っ張られた」こと、そしてソニーが「家電製品から得たかなりの資金を効果的に活用した」ことだという。

そのためセガのすべきことは、次のスライドによれば、ソフト品質を向上し、価格優位性を獲得し、広告を改善し、テレビ広告にもっとお金をかけ、ゲームの発売タイミングを「劇的に改善」することだったとされている。

日本のユーザーにとっては、当時セガサターンが家庭用ゲーム機戦争に負けたとの実感は今ひとつ抱きがたかった。しかし今回のPDFは、米国でどれほどの惨状であったかや、それをSOAの当事者らが何もせず見守っていたわけでもないとも伝えるものだ。

そこに含まれている資料の性質上、いつまで公開されているかは不明である。とはいえ、セガの奮闘や1990年代の米国ゲーム市場を知るための宝の山でもあり、「封印」されないよう祈りたいところだ。

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