【連載】山本敦の発見!TECH最前線 第1回

ソニーは“におい制御”で「嗅覚」をエンタメに。「におい展PLUS+」で触れた“未来の感動体験”

山本 敦

ソニーは人間の五感の中でも、特に「視覚」や「聴覚」に関わるオーディオ・ビジュアルエンターテインメントの発展に、ハードウェアとソフトウェアの両面から貢献してきた企業だ。

同社による感動体験の領域に「嗅覚」も加わる道をTensor Valveが切り拓けば、エンターテインメントにおける新しい価値体験が生まれる可能性があると思う。そのような経緯で筆者は、同社独自のにおい制御技術「Tensor Valve(テンソルバルブ)」を2022年の技術発表以来、注目して追いかけている。

ソニーが2022年に発表、翌年2023年に業務用のデバイス “におい提示装置” として発売した、Tensor Valveテクノロジーを搭載する「NOS-DX1000」

においから感動を伝える技術「Tensor Valve」

とはいえ昨今では映像やサウンドによる表現手法に「におい」を加えて、映画の没入感を高めたり、商品の魅力を多元的に伝える広告手法も見かけるようになった。

ソニーのTensor Valveの特徴は「においを制御できる」ところにある。つまり空気中に漂わせた “におい” や香りを、かがせたい(提示したい)人物に対してピンスポットで届けたり、提示したあと速やかに消し去るといった「においのコントロール」ができる技術であるところに着目してほしい。

ソニーによるユニークな “におい” の技術であるTensor Valveの特徴を体験できるイベントが、2026年2月1日まで東京スカイツリータウンで開催されている。「においの体験」を目的としたイベント「におい展PLUS+」だ。

今回の「におい展PLUS+」はソニーとの共催になる。株式会社トキ・テックが2016年に名古屋PARCOで最初の「におい展」を開催してから、これまでに35万人以上が参加してきた。

東京スカイツリータウンの1階イベントスペース「SKYTREE SPACE」で、2月1日まで「におい展PLUS+」が開催中だ

Tensor Valveとは直接関係ないが、 “世界一臭い食べ物” と呼ばれているスウェーデンの発酵食品「シュールストレミング」の強烈なにおいも、今回のイベント会場に展示されている。普段は体験できない独特なにおいや香りに触れられるイベントとして、幅広い年齢の来場者から注目を集めている。

今回は「におい展PLUS+」の様々な展示内容を楽しみながら、ソニーグループで嗅覚事業を牽引する責任者の藤田修二氏と、マーケティングリーダーである森田徹氏にインタビューした。

ソニーグループの嗅覚事業 責任者である藤田修二氏(左)とマーケティングリーダーの森田徹氏(右)に、Tensor Valveテクノロジーの現状と今後の展望を聞いた

においを混濁させることなく伝えられる

ソニーは2023年にTensor Valveテクノロジーを搭載する “におい提示装置” 「NOS-DX1000」というデバイスを発売している。コンシューマー向けの商品ではないため、一般には馴染みが薄いかもしれない。

この装置の大きな特徴は、独自開発のワイヤ式リニアアクチュエータを用いたバルブアレイを搭載した点にある。本体に40種類の嗅素(においの素)を封入したカートリッジを装填。高出力・高ストロークのアクチュエーターにより、必要な “におい” だけを他の “におい” と混ざることなく瞬時に、かつ均一な濃度の気体として放出する。本体の中には脱臭機構があり、提示した “におい” が室内に充満することも防げる。

NOS-DX1000の専用カートリッジ。においの強い嗅素を使用しても、一切漏れることのない高い密閉性を実現している

嗅覚に関する研究、あるいは香り成分を持たせた商品開発などの現場で、一般的な嗅覚測定は「嗅素を含浸させた試験紙を嗅ぐ」など手間がかかる手法が採用されている。複数の “におい” が室内に充満して混ざることも多いため、試験に時間も要する。

これを機械化することで、測定プロセスのDX(デジタルトランスフォーメーション)が実現し、圧倒的な効率化と高精度なデータ取得を可能にする。NOS-DX1000は発売以来、嗅覚に関わる商品開発を行う企業や、学術研究機関など精度の高いデータを求める顧客層から関心を集めてきた。

この装置には気密性の高いカートリッジ技術が採用されており、内部でにおいが混ざる「におい汚染」も徹底的に排除している。筆者が最初にNOS-DX1000を体験して驚いたことは、異なる “におい” への切り替えが非常にスムーズであること。なおかつ直前に提示された “におい” が残らず、次の香りがクリアに立ち上がる動作のスピード感だった。

このNOS-DX1000のデバイスとしての特徴を活かして、「におい展PLUS+」の会場にはイタリアの「真実の口」を模したオブジェによる「においクイズ」が展示されている。今回の東京スカイツリータウンでの展示から不快な臭いの提示に特化した “新型” が登場したこともあって、若年層の来場者を中心に大好評だった。筆者も体験して嗅いだ「錆びた金属のにおい」や「足のにおい」は、思わず苦笑してしまうほど強烈だった。

「におい展PLUS+」のため新規に用意された “くさい臭い専用” の「においクイズ」。強烈なにおいが混ざらないところにTensor Valveテクノロジーの真価がある

だが注目すべきところは、これほど強い “におい” を提示した直後でも、前後の “におい” が混じることなく嗅ぎ分けられることだ。おそらくNOS-DX1000でなければ2つの “におい” が混じり合って「なんだかわからないけどクサい」という感想になってしまうだろう。そして、代わる代わる「においクイズ」にチャレンジする来場者に対応できない。Tensor Valveテクノロジーがあってこそ成り立つコンテンツと言える。

香りによる演出にも自由度がもたらせる

ソニーグループでは藤田氏のチームが中心となり、スティック型の小型モジュール「Grid Scent(グリッドセント)」も開発した。こちらのデバイスを活用した展示も興味深い。

Grid ScentはTensor Valveテクノロジーを継承しながら、1つの箇所に複数のモジュールを組み合わせることで、特定の場所で “におい” を提示するパターンやタイミングで自在に変えて、香りを届けることができる空間芳香デバイスだ。

NOS-DX1000は、ユーザーが “におい” が放出されるダクトの部分に顔を近づけて嗅ぐ使い方を想定した装置だ。かたやGrid Scentは「におい展PLUS+」のイベント会場のような広いスペース内で “におい” を提示するスポットを決めて、映像・音響・照明といった他の演出要素と同期した“におい”の表現を可能にする。

におい展PLUS+のイベント会場に設置されたGrid Scentのユニット。中央が送風機。Grid Scentが射出した香気を送風機とのコンビネーションにより、ユーザーがにおいを感じる場所まで届ける

ソニーのGrid Scentによる “においの体験” に呼応した花王が、同社の柔軟剤商品による香りの魅力を届ける店頭設置用什器をソニーと試作した。今回のイベントでは花王の協力により、試作什器を使った同社商品の動画広告を事例として展示している。

この展示は、動画内の演者が香りのカプセルをこちらへ投げかけるアクションと同時に、数メートル離れた視聴者の鼻もとへ、心地よいフローラルの香りがピンポイントに届く仕掛けだ。空間全体に香りを広げるのではなく、商品に興味を持って、店頭展示スペースに近付いた人だけに香りを届けられる。

Grid Scentを導入すれば、駅構内や商業施設などの公共空間内で、においの伝達をコントロールしながら香りによる表現に工夫を凝らしたイベントが展開できるだろう。

Grid Scentを活用した花王による「香るCM」の試作展示。動画の中で演者がにおいのカプセルを投げるアクションに合わせて、Grid Scentからフローラルの香りが射出され、鼻もとに立ちこめる

不快な「においをキャンセル」する用途にも広がる

Tensor Valveテクノロジーは「不快なにおいを消し去る用途にも使える」と藤田氏が語る。Grid Scentを活用しながら、第一工業製薬と試作した「においキャンセリング」の展示が面白い。

藤田氏によると、欧米では不快に感じる “におい” を香水などの心地よい香りで「マスキング」する文化があり、対して日本では香水文化がなく、代わりに「嫌なにおいを消し去るための工夫」が日常生活の知恵に端を発して、育まれてきたという。

香りで悪臭を覆い隠す「マスキング」は、時間の経過とともに効果が薄れやすく、 “におい戻り” も起きやすい。覆い隠した香りが悪臭と混ざることで不快に感じる場合もある。

今回の「におい展PLUS+」に出展されている、においのキャンセリング技術では「中和消臭法」というアプローチが採用されている。人の鼻は感知した空気中の “におい物質” を神経細胞により電気信号に換えて、脳に “におい” として伝達する。

中和消臭法では悪臭と精油の香り成分を適度なバランスで組み合わせることにより、中和・相殺を行う。言い替えれば、脳が悪臭を悪臭として “感知しにくくする” のだ。筆者も展示を体験して、「足のにおい」を再現した悪臭が最初に提示された後、続けて提示される香気成分により中和されて、においが感じにくくなる不思議な感覚を得た。

においキャンセリング体験の展示スペース。ゴミ箱を模したオブジェに3基のGrid Scentが仕込まれている。先に「くさい臭い」を射出した後に、香気成分を続けて提示することで悪臭を中和する

森田氏は「Grid Scentを除臭に使えないかという問い合わせが、これまでにも数多く寄せられてきた」と振り返る。例えばタクシーの車内、家庭の下駄箱、あるいはスーパーマーケットの鮮魚などを扱う食品売り場に漂う“におい”をテクノロジーの力で消したいという要望だ。

BtoB向けの除臭ソリューションに豊富な経験を持つ第一工業製薬とのコラボレーションが、今回の展示でひとつの形になった。なお第一工業製薬はコンシューマー向けに「NIOCAN(ニオキャン)」という、天然精油由来の消臭・除菌スプレーを商品として販売している。

「においキャンセリング」の展望については、「お客様から消臭設備を設けたいという要望をいただいた場合、第一工業製薬様が独自の中和消臭技術に基づく天然精油の消臭剤を、私たちソニーがデバイスを提供してパートナーシップを組むようなパートナーシップもあり得るのではないか」と藤田氏は語る。

不快な “におい” を消したいという切実な課題を解決する手段としても、Tensor Valveへの関心と期待がこれからも高まりそうだ。

第一工業製薬が一般向けに販売している消臭・除菌スプレー「NIOCAN」。においのキャンセリング技術のベースとも呼べる商品だ

拡大するパートナーシップとB2B2Cへの転換

藤田氏によると、2025年の1年間にも、Tensor Valveテクノロジーを取り巻く環境が大きく変化したという。同年に開催された大阪・関西万博では、「香りを用いた共感体験」という香りにスポットを当てた体験展示にGrid Scentが使われた。

株式会社サンリオの主催によるイベント「SANRIO FES 2025」でも香りを題材にしたクイズ演出が行われたり、またソニーPCLによる音楽体験イベントなど、ソニーグループによるロケーションベース・エンターテインメント(LBE)での導入実績は着実に増えている。

企業の広告・宣伝のツールにも、Tensor Valveによる “におい提示” を活用できないかという問い合わせも多く寄せられているようだ。先に挙げた、Grid Scentを活用した花王との取り組みのようなものが代表的な活用スタイルになりそうだが、商品やサービスの形態によって様々な展開が起こり得るだろう。

技術の応用範囲はさらにアクセシビリティやヘルスケアの分野にまで及んでいる。Grid Scentを使って、摂食嚥下(えんげ)障害で食べ物を口にできない方のリハビリとして、におい提示を活用する技術の参考展示をCEATEC 2025で行った。

「におい展PLUS+」にも展示されている、ソニーが試作した「魔法の香りコップ」。このデバイスをこのまま商品する予定はないそうだ
「魔法の香りコップ」は、ふつうの炭酸水を飲みながら、装置から射出した「フルーツの香り」や「お酒の香り」を同時に嗅ぐと、味覚と嗅覚の相互作用によって、あたかもその味の飲み物を飲んでいるかのような感覚が楽しめる。エンタメ用途だけでなく、食事制限がある方のウェルビーイングを高める用途などにも展開が期待できる

Tensor Valveテクノロジーを採用するプロダクトの展望を藤田氏に聞いた。藤田氏は、今後はBtoBtoCモデルによる新しい動きが期待できそうだと述べている。既存の商品やサービスに、Tensor Valveが提供する「においの提示・制御」というテクノロジーが加わることにより、新たな体験価値が創造できる可能性がある。

藤田氏は「ソニーが単独でデバイスをつくって売るだけでなく、他社の製品やサービスの中にソニーの技術を組み込み、トータルな付加価値として消費者に届ける方向にも活路があるのではないか」と期待を込めて語った。

筆者はTensor Valveの真の価値が、これまでは目に見えず、コントロールは難しいと考えられていた「におい」をデジタル制御可能な「情報」へと昇華させた点にあると考える。現在、藤田氏と森田氏をはじめとするソニーグループのTensor Valveに関わるチームが探求するBtoBtoC領域への展開は、まさにこの技術が社会のインフラとして溶け込んでいくために欠かせないフェーズだ。

例えば、自動運転タクシーの車内環境を “におい” の調香によって快適にしたり、スマートホームにもTensor Valveテクノロジーを中核とした消臭機能が組み込まれる未来は、決して夢物語ではない。ぜひ実現して欲しいと筆者も思う。

ソニーが追求する「感動」と「安心」の提供は、視覚と聴覚を超え、嗅覚というより根源的な感覚にも訴えかけることで、より深まっていくことだろう。「におい展PLUS+」では、そんな未来の断片に触れることができる。ビジネスパーソンもぜひ足を運んでみるべきだ。

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